第58回日教組教研集会

一応予告通り。
採択されたアピールは「社会の主権者をはぐくむ実践を深め、子ども、保護者らと学校現場からの教育改革を進める」だそうで。どんな教育改革を進めるのかが明記されていないのでは、何のためのアピールだかわかりませんね。そもそも今必要なのは「改革」ではなく「改善」であり「教育の正常化」。
中村譲中央執行委員長は教員免許更新制や学校選択制の導入について、「なぜそんなに急ぐのか。十分な合意がなければ改革は実を結ばないhttp://www.yomiuri.co.jp/national/news/20090221-OYT1T00317.htmと批判した。しかし、この発言の根底にある無意味な平等主義や競争不在の悪環境が学級委員長不在の教育現場として「身近な人間関係に立ち向かえず、仲間と問題を解決する経験が欠如しているhttp://www.asahi.com/edu/news/TKY200902080102.html人間を20年もの間生み続けたことを考えると、十分な合意などと言っていられないことは明らかだ。
そもそもこの「合意」なるものは日教組組合員の既得権益が守られるかが争点であって、子供の教育環境の改善には結びついていない。教師を単なる労働と見なした場合でも、労働の成果=より良い教育を生み出さない労組の主張は認められる物ではない。教師の労働を教育という、日本の将来を担う人材を育成するという本来の意味に立ち返るならば、さらに認められない。
ここ数年の教研集会では怒号や野次や罵声が飛び交うのが常態だったが、今年はそれらが少なくなったらしい。以前、外部からの来賓がいる前で東京の教育委員会会長に罵声を浴びせたことがかなり問題になったようだ。
これは単に組合員教師の質の低下だけではなく、組合執行部の統率力が失われたことも意味している。
そもそも集会で罵声や野次が飛び交うこと自体が異常だが(国会の場合はその要員が確保されているという点でさらに異常)、それをしているのが教師ということが日教組全体への批判に結びついた。そんな教師がいる学校へは子供を通わせたくないですからね。
産経新聞の記者を会場から排除するという実に「開かれた日教組」という前歴もある。
それで今回はどうしたのかというと、野次を飛ばした人間は強制退去。それどころか野次を飛ばすことが確実な人間は最初から会場入りを阻止(笑
組合が組合員を排除するという異様な事態に陥っている。排除されたのはどうやら日の丸・君が代関係で処分された人らしいが、日教組の地方支部では既に日の丸・君が代関係で処分に対しては積極的に抗議しない方針を打ち出しているところもあり、もはや組合としての体をなしていないことが露呈している。

組合としての日教組を評価する場合、その偏向とか組合活動にばかり従事しているとかまともな教育をしていないとかいった要素が目立つ。ちなみに日教組の人間は「非正規組合活動(許可された時間外活動など)の取り締まりが厳しくなり、監視されているようだ」と文句を付けていたが、普通の会社なら非正規活動は処罰の対象です。公務員でももちろん処罰対象。さらに、監視するのにも経費はかかります。このようなことを理解できず、今までの自分たちの行動を反省することもできない人間が教師をしているのだと思うと恐ろしいですね。
さて、日教組の評価は先に挙げたような要素ではなく、一般の会社のような手法を導入すべきだろう。成果主義に走るとまた問題になるだろうが、総務や経理部のような明確な成果物を出さない部門の評価を下す手法が一つの参考になるのではないだろうか。
もちろん、子供の成績はその評価の中に含まれなければならない。評価が一定より低い場合はそれが学期の途中であっても教師を変えるなどしなければならないだろう。途中で教師を変えると何か支障があると反論されそうだが、塾や家庭教師では珍しいことではない。
メンタル面で支障があるのであれば、副担任という制度を十全に活用すべきだろう。

一方でこのような言葉も飛び出している。全国学力テストに対するものだ。「切り捨てられる子供が増えている」「すべての子供に教育を保障するのが自分たちの仕事だったはずなのに」といった意見が出た。http://www.jiji.com/jc/c?g=soc_30&k=2009022200136競争が悪いのではなく、結果ばかりを重視することが悪い。市町村教委の判断に委ねるべきだ」http://sankei.jp.msn.com/life/education/090222/edc0902222115002-n1.htm上へ上へとあおり立てる現状にあり、体力にも順位を付ける。脅迫的に迫れば子供は自己肯定感が持てなくなるhttp://www.jiji.com/jc/c?g=soc_30&k=2009022100130

何を勘違いしているのだろうか。子供に教育を保障するのは国や自治体の仕事であり、教師の仕事ではない。教育を受けられない環境にある子供を救済するのは各地の児童センターなどの仕事だ。まともに集会すらできない、意見の統一すらできない人間に託せる物ではない。
切り捨てられる子供が増えているというのも噴飯物だ。子供を切り捨てているのは教師だ。自己批判ならばともかく、その原因を学力テストやその結果公表の動きに押しつけることしかできないのであれば、即刻教師など辞めてしまえとしか言えない。営業の管理職で部下が成績を出せない場合、そこをケアするのが当たり前だ。
競争が悪いのではなく結果ばかりを重視するのが悪いと言うが、それは「誰」にとって悪いのだろうか?都合が悪いのは「誰」だろうか?発表が生徒個人ではなく学校や自治体単位で行われるのであるから、それは教師に他ならない。
そして上を目指すことが悪い、順位を付けることが悪いなどという旧弊な思想はいい加減捨てなければならない。自己肯定感が学業や体力の成績だけで育まれるという偏執は、生徒を人間として見ていないから生じるものだ。
人間の自己肯定感は様々な要因や価値観によって培われる。それすらわからない人間が、子供の自己肯定感を涵養することなどできるはずがない。