サリドマイド、治療薬として承認

癌の治療薬として、サリドマイド剤が使用されるようになっている。サリドマイドと言うと、30代以上の世代にとっては副作用に催奇性を持った恐怖の薬というイメージがある。
妊娠中に睡眠剤やつわりの抑制としてこの薬(胃薬に混ぜられた場合もある)を飲んだため、四肢欠損や腕の欠損を持った子供が多く生まれたのだ。

一時、サリドマイドの催奇性は光学異性体であるR体とS体のうち、S体が原因であると報道された。光学異性体とは、化学式は同じだがその分子構造が異なっていて分子の位置を置き換えないとその鏡像と重ね合わせが出来ない状態にある物質(つまり二つ以上の物質)を言う。
わかりにくいですね。○×□△で絵にしてみましょう。

○× △× ○×   ×○
□△と□○は□△の鏡像△□
を時計回りに90゚回転させると重ね合わせが出来るようになります。
○× ×△ ○×   ×○
□△と□○は□△の鏡像△□
をどう回転させても重ね合わせることが出来ません。これが光学異性体です。この○×□△の並び方をキラルと言います。構成要素○×□△を元素、並び方が分子構造だと思って貰えれば多少はわかりやすくなるでしょうか?
元素の場合は結合にルールがあるので話は単純ではありませんが、○×□△を一つずつ使って四角に配置する場合、いくつものパターンができてしまいます。実際に化学物質を作る場合も同じで、通常化学物質を合成するとほとんどの場合キラルとなり、R体とS体が出来ます。
アミノ酸などの場合はd型l型と呼びます。厳密にはR-Sとd-lは定義が異なるのですが、とりあえずは区別しません。基本的に自然に存在するアミノ酸はl型だけで、d型は特殊な場所に存在するだけです。
少し昔だと自然界に存在するアミノ酸はl型のみ、と言われているような状態でした。自然界ではそれほどl型が占めている割合が高いのです。逆に糖はd型がほとんど。なぜこんな偏り方をしているのかは分かっていません。

さて、ではアミノ酸を合成して人工的に作るとどうなるかと言うと、他の化学物質同様d型とl型がほぼ等量作られてしまいます。この、二つの型が等量ある状態をラセミ体と言います。サリドマイド剤の場合、ラセミ体(R体とS体が等量)で流通しました。

ではR体だけを作ることは出来ないのかというと、出来るのです。出来るのですが、その方法の一つを確立した野依良治博士はその功績でノーベル化学賞を受賞するほどの歴史的な出来事でした。
博士が確立した方法以外では、R体とS体を作り、R体を選択時に取り出す方法などがありました。この方法の欠点は、作り出した物質のうち半分を捨てることになるという生産性の低さです。

となると、サリドマイドを癌の治療薬として使うならR体だけのサリドマイドを作れば良い、ということになります。実際にそれは可能で実現もしたのですが、その結果、R体を人間の体に入れるとなぜかS型が時間が経つに連れて出来てしまうことが判明しました。
つまり、一時報道された「催奇性はサリドマイドのS体が原因」というのは非常に怪しいのです。R体だけを投与しても催奇性を抑えることは出来ないと考えるのが自然です。
サリドマイドの投与に対して現在も様々な手続きが求められ、厳重な管理が求められている背景にはこのようなことがあるわけです。
ただし、サリドマイドに対するヒステリックな忌避感があるのも確かです。日本人が異常に原子力を忌避するのと根本は同じと言えるでしょう。

さて、サリドマイド光学異性体問題はR型が生体内でS型に変わってしまうことで解決すると思われるのですが、アミノ酸の場合はなかなか難しいことになっています。
蛋白質アミノ酸から構成されています。蛋白質は10万種類程度あるそうです。ところが使われているアミノ酸の種類は20種類。
つまり20種類のアミノ酸の組み合わせや使われる量の違いで10万種の蛋白質が作られるわけです。そして、蛋白質にも光学異性体のような存在があります。
蛋白質は直線で結合した複数のアミノ酸で作られます。直線で結合するのはDNAが直線であり、DNAを読み取りながらアミノ酸が作られるためです。
蛋白質は、その直線で繋がったアミノ酸(ペプチドと言います)が折り畳まれて作られます。同じ種類のペプチドでも折り畳まれ型が違うと違う蛋白質になるのです。

生物の体内では神経細胞内部以外の伝達は基本的に「手探り」で行われます。ここが実に巧妙に出来ているのです。
たとえば細胞がウイルスに感染すると、ウイルスの蛋白質の一部が細胞表面に運ばれて、その蛋白質の形でウイルスを特定し、さらにその形が現れている細胞は攻撃されて破壊されます。
ウイルスに対する免疫反応が開始するきっかけは細胞表面にウイルスの蛋白質を運ぶだけではありませんが、そちらでもやはり「形」が重要な位置を占めています。
レセプターという細胞表面のスイッチは、その形状にしっかり嵌る特定の形状の物質が嵌ることで作動します。鍵と鍵穴に喩えられるのはそのためです。レセプターに嵌る物質のことをリガンドと言いますが、時に微妙に形が違うリガンドがレセプターに嵌ってしまうことがあります。
これは良く似た顔の人を目の見えない人が手探りで判断する時に間違ってしまうことがあるのと似ています。
これらの現象は全て「形」によって情報が伝達されている、つまり目が見えない人が手探りで他人の顔を認識するのとほとんと同じ方法で行われていることを示しています。
細胞内や細胞外への情報伝達は封書でやりとりされていて、封書の中には鍵が入っているだけで、文字情報は使われていないのです。
さらに言えば、封書には宛名も書かれていません。宛名書きの代わりにやはり鍵が貼り付けられています。郵便の収集人はその鍵を触って、どこに届けるか、あるいはその封書は自分が収集する物なのかまでを判断します。

サリドマイドでR型やS型が問題になった背景には、同じ化学式の物質でも生体内では上記のように「形」が違うと全く違った反応が生じるという特徴があるのです。
細胞内部と外部で情報をやりとりするためのシステムは物凄く巧妙に出来ているのですが、それはまた別の機会に。