日の丸、君が代

世の中には国旗と国歌にすら反対する人たちがいる。反対する理由は大体以下のような物だ。

  1. 愛国心を涵養することによって戦争を容認する国民に子供達を育てる物だから。
  2. 国旗国歌法は強制性を持たない。逆に歌わない・国旗を敬わないのは思想信条の自由として憲法で保障されている。
  3. 日の丸と君が代は部落出身者にとって、差別構造の根源の象徴であり、これを歌わせる・敬わせることは差別の助長と再差別になる。
  4. 学校にはアジア出身の子供達もいるので先の戦争の象徴である国旗国歌を強制することは許されない。

基本的には「戦争反対」と「憲法19条(思想信条の自由)」と「過去の歴史」のようです。
まあ建前というか、反対するために後付けされた理由でしょうね。

過去の歴史を言うのであれば、彼らが主張する「旧軍が被害を及ぼした国」の日本大使館は日の丸の掲揚は自粛するべきだと思われます。
しかし、それは国際社会では通用しません。相互主義の観点では、日本が他国のウィーン条約第二十条、国旗掲揚の権利を侵害することになりかねません。
では国内ではどうかと言えば、日の丸はスポーツの国際試合では日常的に振られています。何故か反対派は卒業式での掲揚反対に固執しますが、それは全く効果がないわけです。
さらに言うならば彼らの主張では諸外国で侵略戦争を行った国は国旗を掲揚するべきではないということになります。
反日デモで日の丸が焼かれたり食いちぎられたりする中国や韓国でも、友好的なイベントでは普通に日の丸を使用します。彼らの行為も反対派は否定するのでしょうか。ちなみに韓国では自国と他国の国旗を汚損したりすると罪になります。守られてませんが。
少なくとも、きちんと他国の国旗に敬意を払うべきと明文化された法律を持っている国が日本の国旗を使っているのを否定する権利は反対派にはありません。
つまり彼らの主張は国内国外を問わず意味がありません。

また部落差別についてですが、彼らはこれを律令制に基礎を置く身分制度と混同しています。古代の身分制度にも賤民とされる人々はいたのですが、これは血筋や出身地に依る物と言うより、犯罪者に対する刑罰の一種であり、一定年齢になれば賤民身分から脱することができるものです(もちろん例外もある)。
現代の部落差別はおおよそ中世平安時代に始まる物で、やはり社会から排除された人々に「固定された職」を付与することで社会につなぎ止め、その職業から賤民であることを明示するようになった辺りから明確な物になります。
これには君が代に象徴される天皇制とは全く関係がありません。その後、豊臣・徳川の時代になって身分として固定化されましたがやはり天皇制とは関係ありません。たとえば士農工商徳川幕府が取り入れた朱子学(儒教の一派)によって形式的に取り入れられた仮想の上下関係ですが、ここに含まれない身分として賤民がいます。彼らには特定の職業の占有権と共に、税の免除や兵役の免除など特権も与えられていました。
つまり当時の日本社会においてある種の別社会を構成していたのが彼ら賤民と言えます。同様に別社会を構成していたのは公家、役者、僧侶、神主などがいます。それぞれが別社会を構成していたので、公家と神主以外はほとんど没交渉かつ無関係と言えます。そしてそれぞれが各々特権を有していました。
明治に入って岡山などで賤民が「平民になりたくない」と一揆を起こした背景にはこのような特権が奪われることへの反発があったのです。
つまり部落差別は国旗国歌に反対する根拠にはなりません。

愛国心を涵養すると戦争を起こす国になる、ですがそれは間違いです。国が戦争という最終手段に出ないようにするのも愛国心です。もちろん戦争にも愛国心は介在しますが、これは主として独立戦争などに関わる物であって、侵略戦争への参加は「忠誠心」に該当します。
国を愛していたら、そこに夾雑物が混ざるのは日本人としては忌避する方向に進むと言えるでしょう。愛国心とは過去と今の国を愛し、大事にするものです。未来の国が過去と今と断絶するような事態(つまり他国を侵略して併呑する行為)は愛国心に反する物です。
過去の日本では国家への忠誠心を愛国心とおそらく意図的に混同したため、今でもごっちゃになっているようです。
ちなみに旧軍で文民政府が軍の暴走を許す契機になった5.15事件と2.26事件の首謀者たちはどちらも社会主義に傾倒していたとされています。

思想信条の自由ですが、正確には「思想と良心の自由」です。
もちろん思想は自由です。良心も自由です(実際には良心が足りない場合は裁判で量刑の判断に使われます)。
まず反対派の間違いは、学校とは思想を披瀝する場ではないという点にあります。
反対派の論理では「自由なのだから起立する必要もないし歌う必要もない」のだそうです。教師の場合はこれに「伴奏を強要されない自由がある」と追加されます。
つまり彼らの言い分では「思想に反するのであれば何であっても拒否して良い」わけです。ということは「授業に出る必要もない」「試験を受ける必要もない」「教師の仕事をする必要もない」ことになります。
もはやまともに機能する社会は望めません。もっとも、組合に関係している教師は「教師の仕事をする必要もない」を実際にやっていますが。
国旗・国歌に反対する人々の「反対する理由」は全く意味がない物ですね。
まあ目的が自国を貶めた上に国際社会まで破壊することですから、仕方がありませんが。