死刑

光市母子殺人事件の犯人の実名を載せた本を出版しようとしたが、犯人の弁護士側から出版差し止めの請求があったといった話がニュースになっている。
この本が出ることと実名報道されることについてはかねてから聞いていたのだが、そもそも実名報道にする意味がわからなかったし、著者(自称ジャーナリスト・元JANJAN記者)の増田美智子女史については鳥越俊太郎氏の人間性を暴露したという実績(笑)はあるけれど、それ以外ではちょっと評価できない。鳥越氏との電話内容もネットに流れているが、あれを「取材」と呼ぶのは個人的には無理。2ちゃんの電凸の方が取材という体裁を保っている。
そもそも私は鳥越氏のジャーナリストとしての実績は評価しているが、人間としては大嫌い。だから、増田・鳥越紛争については増田側につくし、そもそも増田女史の取材は結局正しかったことが判明している。
鳥越氏は番組「警察が嘘をついている」とか批判していたけど、自分のことになったら平気で嘘をついていたわけです。
しかし、今回の出版差し止め問題については「そもそも実名を出す意味はあるのか」という点から納得できない。女史の主張では人格と実名には関連性があるとのことだが、そりゃ一体どういう理屈ですか?もしかして間に何段階かの論理展開があって、それを省いているだけなのかい?それとも単なる感性での発言?
会見を聞いている人間が理解できない論理展開をするようでは本の内容も推して知るべし。いや、もしかしたらその論理展開が本の核心で、会見でネタバラシするのを避けただけか?とも思ったが、あんな短い会見で本の核心が完全にネタバラシできるようなら、そんな本は読む価値も無いだろう。
たった25回面会しただけで相手のことを理解したようなことを言うのも信用できない。
25回ってのは日曜日を省いた一ヶ月。しかも接見時間には様々な縛りがある。地域によっても違うらしいが、被疑者は9時過ぎから16時くらいまで接見可能らしい。しかし、その間自由に会えるわけではない。被疑者も食事を取らなければならないし、他にも様々なことをする必要がある。弁護士と会うこともその中の一つだ。他にも接見の要請があればそちらに応じることもある。
うまく行って25回の接見全てが丸々時間いっぱい取れたとして、それでどれ程のことがわかるだろうか?二人きりで好きなだけ話が出来るのならともかく、接見用の部屋(分厚いガラスに小さな穴が円形に穿たれている殺風景なアレですね)には見張りが必ずいる。

さて、今回の本で一番気になったのが「○○君を殺して何になる」という本のタイトル。ネットで流れまくってますが、一応実名部分は伏せます。
「殺して何になる」というのは死刑廃止論者がよく使う言葉。人が既に犯罪で死んだのに、さらにそれを理由としてもう一人殺すことに何の意味がある、といったものです。
死刑廃止論者として活動していて某かの団体に賛同人として名を連ねているのは多くの場合左翼だ。もしかするとネットを利用して活動しているのが左翼で、右翼はネットを使わず旧態依然とした活動をしていて見つからないだけかも知れないですが。
左翼=社会・共産主義者ではないが、その傾向が強い、もしくはかつてその思想の元に行動していた、あるいは親中国、という括りで大体合っていると思う。労働者は社会の共有資産であり、社会を動かす原動力であり、平等に扱われるべきものである。一方、富を集中させて搾取するブルジョワジーは基本的に敵である。
えーと、殺人事件というのは共産主義的アナロジーだと「特定の個人が社会の財産を独占した上に破壊した」ってことになるわけです。殺人犯ってのはブルジョワジーなんですな。左翼の敵です。

まあ、これは別に社会・共産主義に限ったことではなく、資本主義でも人間というのは資産なわけです。遡れば封建主義時代でも資産です。人間は平等ではないので、例えばノーベル賞を取った人は高い資産価値を有しますし、岡野工業の社長さんなんてのは天文学的な資産価値を有します。しかし、普通に働いている人も、その人を支えている人も、社会的資産価値はそれなりに存在し、他の人間とは替えられない価値も有しています。
日本という社会においては特に人間の価値は高いと言えるでしょう。多くの発展途上国でも同様に人間の価値は高いのですが、どうもそれが軽視されている気がします。
人間の価値が高いならば死刑はやっぱり駄目なんじゃないの?と思う人もいるでしょうが、実際には違います。人間という資産を個人的な目的で浪費する人間は、その社会においては害悪でしかないのです。排除しなければなりません。
排除しつつ、社会に貢献する(資産価値のある)人間にするための施設が刑務所ですが、どうもそのようには機能していません。もっとしっかりとケアが出来る施設になって欲しい物です。民主党政権はその辺りに着手して貰えませんかねぇ。
さて、どのような方法をもってしても資産価値がある人間にすることが出来ず、今後も社会的資産(人間)に害をなすだけの人間はもうどうしようもありません。終身刑がない日本では死刑になります。私は個人的に死刑制度というのはこのような理屈で肯定されるべきと思っています。
遺族感情等の要素ももちろん考慮されるべきですが、じゃあ遺族がいない場合は刑が軽くなるのかと考えた場合、遺族感情にあまりに重きを置いて死刑判決を出してはならない。法の下での平等が維持できないのであれば、死刑制度も肯定できない(実際には全ての法制度が肯定できなくなるわけですが)。

一方、死刑制度が無い上での終身刑が含む問題は、その後何をしても死刑にならず、しかも罰を科すことが出来ないことです。せいぜい独房行き。逆に、独房に入った方が都合が良かったりします。
例えば終身刑ではない事例ですが、アメリカでは州をまたいだ刑務所内でネットワークを築き、白人受刑者が異なる人種の受刑者を殺害したという例があります。こういったことに荷担するのに、仮釈放なしの終身刑囚というのは実に都合がよい。
独房が都合がよい、というのは刑務所内での謀殺から逃れる方法にすらなるということです。刑務所内で人を殺し、報復から逃れるための手段として独房が使えるわけです。
先にも書いたように、刑務所というのは本来犯罪者を社会に貢献する人間にするための施設です。つまり、出所すれば犯罪者も社会に貢献する一員となるわけです。実際、再犯さえしなければ前科がある人も立派な社会の一員です。
これが、刑務所内で殺されるとなるとやはり社会的損失になります。そしてその場合、実行者として最も都合がよいのは終身刑の人間なわけです。死刑制度がない上での終身刑を否定的にしか捉えられない理由はこういったものです。
死刑制度ありでの終身刑の場合、さらにはどちらがより重い刑か、という問題も生じます。個人的には終身刑の方が死刑より重いと感じますが、皆さんはどうでしょうか?