ジミンガー→ヒサイシャガー→?

しばらく前から、「自民が原因」と民主党があまりにも言うので言い訳(になっていないもの)の典型として「ジミンガー」という言葉が使われるようになった。「ミンシュガー」も見るようになった。
最近の傾向では「ヒサイシャガー」と「ヒサイチガー」もよく使われる。主に民主党とマスコミが使うようだ。しかしこれは、思考停止の言い訳でしかない。
特に酷いのが「ヒサイシャガー」で、まるで被災者は絶対的な誤謬性を持ってでもいるかのような扱いをしている。この手法は不信任案提出後のマスコミが大々的に使用した。民主党と全く同じ手法で。つまりは被災者に「そんなことをしている場合じゃない」と言わせ、その意見は無条件で正しいように見せた。
その辺りは自民党も同じで、こちらが使用したのは「カンガー」だった。
まあどんな言葉を使うにせよ、これまでの総括も検証もせず、建設的な論の展開をしようともせず、具体的な案も示さないことの言い訳という点ではどちらも大差ない。
危険なのは「ヒサイシャガー」だろう。これは社会的・経済的な弱者となっている被災者を絶対視したり、彼らへの援助を絶対視する立場を作り出し、利用している。某ユダヤ団体や某部落団体と同じ手口だ。
このような空気を作り出していることが、震災便乗詐欺などというものが起きる素地となっている。
もちろん被災者・被災地に支援することは正しい。と言うか、まだぜんぜん足りていない。そもそも政府の支援はまだ届いていない場所が沢山あるし、支援金にいたっては名前しか存在していないも同然だ。
ボランティアが現地ではまだまだ必要な状態なので、ぜひ参加して欲しい。食料や水は東北の沿岸地域以外ではほぼ普通に入手できるので、首都圏から持ち込むのも結構だが、できれば被災地近くで購入していただけるとよりありがたい。
ともかく、何事か、あるいは誰かを倫理的に絶対の指標として利用するやり方はあまりにも危うい上に卑怯でもある。

最近では「フッコウダイイチダー」や「シゼンエネルギーダー」(呼称の命名が稚拙なのは御容赦いただきたい)が同様の言葉として利用されている。そう、利用。
もちろん復興は絶対に必要だし、自然エネルギーの利用も重要な方策だ。だから、問題なのはそれを他のことの言い訳に利用することなのだ。
政治の混乱を収束させる理由付けとして「フッコウダイイチダー」を使うのは結構だ。だが、混乱が生じているのは事実であって、理由付けだけを振りかざしても収束するわけではない。
必要なのは「早急に混乱の元を排除して正常化すること」だ。「フッコウダイイチダー」と喚いて混乱の元を放置してもどこかでつまずく。本当に復興第一と考えるのであれば、急くべきは急いて、取り除くべきは取り除くのが正しいやり方だ。
仕事において、現状の問題を放置したままスケジュールだけを進めようとすることはままある。だがそんなやり方では大概ろくな結果にはならない。「フッコウダイイチダー」は仕事で言えば「ノウキダイイチダー」と考えればよい。「ネンドマツケッサンダイイチダー」でもいい。
納期第一・年度末決算第一で仕事を進めるのは短期的な経営とか成績稼ぎには効果がある。だがそのやり方だけで進めていけば、ほぼ必ず長期的には問題が生じる。今回の震災復興で言うならば、地域とそこに住む人々の将来に仮根を残すと言える。
そんなやり方が正しいとは思えない。

「シゼンエネルギーダー」は別の問題も持っている。これが絶対的な指標となって、他のことが蔑ろにされる危険をはらんでいる。
たとえば孫社長が打ち出した「休耕地などに太陽電池パネルを施設してエネルギーを生む=電田案」というものもこのままではそうなりかねない。
そもそも日本には震災前からの課題として、食料自給率が低いというものがある。この前提を忘れてはならない。
農地の活用法は農地法によって制限されており、さらには転用・譲渡も制限されている。食料生産は国家にとって最後の生命線なのだからまあ当然だ。
ところが「シゼンエネルギーダー」という思考停止かつ絶対的な言い訳の言葉を使われると、農地法で転用・譲渡が制限されていることが「間違いだ」と、または休耕地を持っているのに太陽光パネルを設置しないことが「悪いことだ」とすら見られかねない。
ちょっと考えていただきたい。太陽光パネルを設置するのに最適な場所は休耕地だろうか。休耕地である必然性はあるだろうか。休耕地でなけれはならない理由はあるだろうか。
何のことはない、短期的に見れば休耕地ほど無為のままの土地はなく、かつ安価な土地は他にはそうそうないというだけの話だ。企業や自治体からすれば旨みが大きい。
しかし、他にも候補となる土地はいくらでもある。一本数千円でしか売れず、輸送代を払うと赤字になる樹を植えている国有林。スギ花粉の供給地など必要ない(花粉症市場にとっては別だが)。地方自治体が抱えている、資産には計上されるが利用されていない土地。
国有林だけ、地方自治体の塩漬け土地だけ、などと限定するととてもではないが必要な電力量を賄える広さにはならない。しかし複数の、無駄になったままの土地を集めればそれなりの発電量は確保できる。
そして、そういった土地を上手に使うほうが、将来的に食料生産という目的のために使用されるべき休耕地を占有するよりも仮根を残さないと考えられる。
食糧増産が必要になったとき、発電に利用している土地を再び農地に戻すためにどれだけの時間と労力が必要になるだろうか。農地として買い戻そうとしたときに「シゼンエネルギーダー」という御旗で買いあげられた金額で買い戻せるだろうか。休耕地を電田にするのは比較的簡単だが、戻すのはかなり困難になるだろう。
もちろん、国有林林業資産としてだけ見れば無為な存在だが、自然の一部、環境の一部としてはそれなりに機能している。人工的な林でも生物はいるし、水源の確保や地盤・傾斜面の維持という観点も無視できない。無為な存在と言い切ることは難しい。
しっかりと将来を見越して計画しなければならない、という意味では休耕地と同じだ。そしてこれは国家の計においては普遍的なものだ。
ところが「シゼンエネルギーダー」にはこういった視点がない。電気増産のために農地法を変えるべき、なんて言い出しかねない。
電田案は練り上げれば有効な方法にもなるだろうが、現段階では非常に短絡的な、脊髄反射的発想でしかない。

被災者や被災地を利用して、本来見るべき・考えるべきことを無闇に単純化しようとしていると非常に危険なことになる。マスコミが今やっていることは、どうにも思想統制色が強過ぎるのだ。しかも無自覚なのか自覚しているのかもわからない。
TVを見ていると国民総白痴化する、という言葉は今の時代にこそ言うべきなのかもしれない。