戦後食糧難の不幸

戦後の日本が食糧難であったことはつとに知られているが、その原因の一つが冷害であったことはあまり語られない。
東北農業調査センターによると、昭和6年、9年、16年、20年に東北地方で冷害が記録されている。http://www.reigai.affrc.go.jp/zusetu/reigai/kako/kyorei.html
特に16年と20年の冷害は気温の低下が激しい。減収率は明治と大正時代の方が大きいのだが、それでも太平洋側の宮城、岩手は20〜40%近い減収となっている。逆に秋田と山形は逆に微増収と微減収になっているが、青森では50%程度の減収となった。
各冷害の年に起きた重大事を記すと以下のようになる。

昭和15年には米穀強制買上制(米の強制供出)と価格統制令が施行されたが、翌年には冷害が発生することになる。これにより、ただでさえ物資不足だった経済は打撃を受け、配給の遅配が頻発する。
価格統制令は値上げを禁止して価格を据え置く法律で、本来物資不足により様々な価格が上昇するべき経済をねじ曲げる結果になった。
さらに昭和21年3月には物価統制令が施行される。価格統制令でねじ曲げられていた経済は、ここでさらにねじ曲げられる。物価は戦前の10倍、賃金は5倍とされ、困窮に拍車がかかった。
前年の冷害によってさらなる減産になった食糧は一気に価格が上昇し、さらにこの状況で日本には約630万人とされる人々が続々と帰国していた。
GHQが食糧を配給したことによって食糧事情は改善された、とよく言われるが、実態は昭和16年に6大都市で行われた米穀配給が成人一人米約330g(もちろんこれが確保されたわけではない)だったのに対し、300gと減っていた。
山口良忠判事が闇米等に手を出さず、餓死(正確には栄養失調に伴う疾患)したのは昭和22年である。GHQの食糧支援が言われている程ではないことがこのことからもわかる。
ただし、GHQの食糧支援がなければ一杯市民にも餓死者は出ていただろう。
さらに問題を拡大させたのが闇市の存在である。闇市は戦災の焼け跡を不法占拠する形で発生した。同様に関東大震災の被災後にも闇市は発生したが、これらは不法占拠と言うより、露天商のように活動していたとされている。
戦災の焼け跡、という条件のため、この種の闇市は都市部に集中した。
不法占拠の闇市の経営者は不逞在日、引き揚げ者、暴力団(愚連隊)が多かった。いわゆる在日外国人が炭坑や鉱山や軍需工場で働かされていた、と主張するのに対し、非常に速やかに都市部に移動していたことになる。
ちなみに闇市の一つが、無線機などの軍事物資やその部品を販売することに特化した結果生まれたのが秋葉原という特異な町である。
さて、物価が10倍となり、賃金が5倍という歪な経済の中、食糧は買い出しとそれによる闇市という流れで都市部に入るようになった。歪な経済下で裏の流通が増加するのは、1993年頃に生産地直送の闇米が出回ったのと同じである。
正当な価格で購入されない状況下では農作物はより適正価格をつける流通に乗るようになるのは当然と言える。終戦時の冷害下では少ない作物を価格統制令により安く強制的に買い叩かれた農家が、翌年の3月に物価が10倍、闇ではさらにその数倍という状況下で正規の流通を選ぶはずがない。
法的には違反だが、経済的には闇での流通こそが「適正価格」であったのだ。


しかしこの「適正価格」と賃金の格差・物資不足・職業不足によって食糧は闇市において超インフレとなる。さらに円の価値下落を理由に(おそらくは口実に)食糧と貴金属や美術品との交換が行われるようになる。
貴金属や美術品が食糧と交換されるのは完全な末期状態だが、これらが交換品として流通した背景には大陸の文化の影響もあったのではないかと推測する。また、在日の中には帰国する予定の者もいただろうから、円より貴重品、と考えたのかも知れない。
この動きによってさらに一般国民は窮乏することになる。全体からすれば極一部の量だとしても、自国内で自国通貨の価値が低くなったことはさらにインフレに繋がる。

そして昭和21年5月19日、物価統制令からわずか2ヶ月と半月という短期間を経たのみで皇居前に25万人とされる人々が集まり、食糧の管理は国民に委ねよと叫ぶ「食糧メーデー」が起きる。
戦争によって生まれた価格統制令とそれを是正する目的の物価統制令はあまりにタイミングが悪すぎる冷害と、闇市という不法流通によって攻撃の対象となったのである。


ただし、闇市には「公式ルートでは手に入らない物資」を都市部に流すという正の側面があったことも間違いないし、政府(当時はGHQ指揮下の間接統治だが)の無策も看過できない。
GHQの当初の目的は財閥の解体や農地改革によって日本のピラミッド型社会を破壊して戦争ができない、さらには連合国の経済的な脅威とならないレベルの国にすることだったから、物流が国民の欲求を満たしていなかったことも考えられる。
さらにはGHQの指示で政府が案を作り、それをまたGHQが審査するという形をとっていたために国民の欲求に速やかに応えることができなかった側面もあるだろう。


それにしても、不自然な程に冷害の事実が語られずに「戦後は食糧難だった」と困窮だけが膾炙される現在の状況はどう見ても異常である。