市民と国民

今日行った美容室で、麻生首相民主党の姿勢に対して「市民?国民じゃないのね?」と記者とやり取りをした(この記者の質問自体が酷い誘導なのだが)件に関して、ズレた視点のコラムを見た。:ニッカンスポーツだが、ソースはネット上に見つからず。
コラムによると、自民党など保守は「市民という言葉から市民運動などを連想して拒否感を示す傾向がある」として、「国民と市民」を普通の人は同じ物として感じているのに、古い事柄に固執して別に扱うのは国民の意識から乖離している、とある。
どんな理屈だか、と言うか、このコラムを書いた人間の言葉に対する見識を疑いたくなる。
小学校の国語の授業で習ったのは、「同義語は様々あるが、全く同じ意味・印象のものはない」ということだ。
簡単なところでは「川」と「河」。「小川」とは言うが「小河」とは(人名は除く)言わない。「大河」とは言うが「大川」(人名は除く)とは言わない。同じ水が流れる場所を意味する「川」と「河」だが、「河」には大きな・広い川、という意味が含まれており、それ故「河口」は一般に広いので「河」の字をあてるのである。
これは外国語でも同じ。
ブルーと青は同じではない。だからこそ『限りなく透明に近い青』ではなく『限りなく透明に近いブルー』というタイトルが存在し、「誇り高い」と「プライドが高い」は微妙に違うニュアンスを含むことになる。

市民という場合、一般にはそこの社会を構成する者(特に有権者を指す場合もある)を言うが、国民はそこの国の国籍を有している者を指す。有権者を含まない場合の「市民」は長期滞在の外国人から永住権を持っている外国人も含むが、「国民」には彼らは含まない。
前回の永住外国人参政権判決の傍論で言及された、地方自治体の「住人」はほぼ「市民」とイコールだが、「国民」とは全く違う。
「住人」と「市民」の違いはと言うと、「住人」は自治体など居住地により意味に制限がある。「村の住人」や「東京の住人」とは言うが、「村の市民」や「東京の市民」はあまり使わない。「市民」には行政上の「市」の「住人」という意味もあるので、「世田谷区住人」は良いが「世田谷区市民」はあまり使わない。
コラムにあるように「市民」が「市民運動」を連想させるというのも違いの一つだろう。「プロ市民」とは言うが、「プロ住人」や「プロ国民」とは言わないのはこの違いによるものだろう。

そもそも、市民と国民を区別した発言は麻生首相ではなく鳩山代表がしたもので、『一言で言えば官僚目線の麻生政権に対し、市民目線、国民目線の鳩山民主党。その対決の姿を示しきりたい』というものだ。上で書いた「酷い誘導」とは、この言葉を正確に伝えず、鳩山代表が「市民」とだけ言ったように首相に伝えたことを意味している。発言を正しく伝えなければ、回答はピントがずれた物になる。
しかし麻生首相は現在の民主党の問題とその問題が影響を及ぼすのは「市民」ではなく「国民」に対する物だと認識しているので、「国民が知りたいのは小沢氏代表代行の金の問題」と模範解答をした。ピントがずれた回答が欲しかった記者連中は、当てが外れて「市民?国民じゃないのね?」という発言に群がった、といったところだろう。今回取り上げたコラムもその一つなのだろう。

さて、コラムニストの主張を認めるとすれば、「国民」と「市民」を明確に区別して使った鳩山代表にも麻生首相と同じ古い意識があることになる
実際には(もちろん想像だが)鳩山代表が国民と市民を並べたのは、上で主張したようにそれぞれが違うカテゴリーの人間を指していることを認識しているからだろう。麻生首相が問い質したのも、同様の言葉の認識があったからだろう。「市民運動」などといった連想が脳内であったにしても、少なくとも両者そのようなそぶりは見せていない。
鳩山代表が「市民」と言ったのは、永住外国人参政権を視野に入れた物であることは想像に難くない。つまり鳩山代表の発言趣旨は『「日本に住む国民以外」の目線と「国民」目線の鳩山民主党と翻訳できる。
官僚目線よりは良いと思うが、何で在日外国人の目線を日本の党と党首がそこまで必要とするのかが理解できない。まして国民より先に挙げることも、だ。「諸外国の目線」を取り上げた方が、政権を狙う党にとっては価値があっただろう。
これらから読み取れるのは、鳩山民主党の視線はとことん日本国内にとどまり、国内を細分化している(そして細分化していたものを統合しようとしている=永住外国人への参政権付与)ということだ。
民主党が「政権を取る」ことだけを考え、その先、つまり政権を取った場合の先をまともに考えていない、と批判されるのはこの辺りに問題があるのだろう。
鳩山代表は二つを並べず、どちらかだけを使えば良かったのだ。民主党の立場からすれば「市民」を選択すれば良かった。それで誰かから「市民」の定義を求められたら「日本国内で暮らしているすべての人」とでも言えば良い。
変に二つを並べたために「国民」と「日本に住む外国人」が等価であると受け取れる(民主党は実際そう考えているのかもしれないが)発言を残してしまったのだ。

言葉の選択は大事なことである。それが政治家や報道人ならばより大事である。その意味では麻生首相鳩山代表も自らの立ち位置を示す言葉を正しく選択したと言えるだろう。
しかし、コラムの方はどうだろうか?言葉の玩弄の仕方も事実の提示も批判の対象も結論もダメ。これがスポーツに関する記事だった場合、ニッカンスポーツは試合内容も結果も解説もウソの、世紀の大誤報を載せたことになっただろう。
小さなコラムだったが、こんな文章で良いのなら他に載せるべき情報はいくらでも世の中には転がっている。