里山はただの幻想

生物多様性が取り沙汰される前から日本ではプチ里山ブーム。そしたらCOP10で「SATOYAMAイニシアティブ」なんてものまで登場しましたよ。
そのSATOYAMAイニシアティブ」ですが、日本の大方の人が想起する里山利用とは全く違います。かなり考えられています。唯一の欠点はSATOYAMAって言葉。
そもそも日本で里山(以降「里山」は日本のものを意味します)が衰退した原因は「里山を利用する農業経営モデルでは生活できない」からであり、持続的利用どころか現在の利用すらほとんど行われていないのが現状です。

定義が問題ですが、里山には「人家に近い山」と「人間が利用・維持する山」と大きく分けて二つの意味があります。現在は後者の意味で使われることが多く、SATOYAMAイニシアティブでも同様の定義となっています。
つまり利用形態に意味があるのであって「人家の側にある自然の山」は里山とは呼ばないことになります。
利用という意味では自然のままほったらかしの山も昆虫を捕ったり自然を観察したりの他、稀少生物の生息地としてという文化的(?)な利用も存在しますが、今後はその手の森林が里山と呼ばれることは少なくなるかも知れません。
名古屋の平針里山問題は、この観点では里山と呼ぶべきではないのでしょう。個人的には残して欲しいですけどね、この地区。稀少生物がかなりいるらしいので。

里山の写真家の人が「木の下木うちもせず籔が茂った場所はカブトムシも飛ぶのを嫌がる」と言い、現状を嘆いていました。しかし、理想的な里山の環境はカブトムシの幼虫にとっては理想的でしょうか?
下木うちをして籔を刈ることで風通しがよくなり、落ち葉を肥料として利用する里山ではカブトムシの幼虫が必要とする腐植土(腐葉土)は少なくなります。また、光が入るように調整された土地には腐植土にはなりにくいアカマツが生えます(だからマツタケが生える里山があるんですね)。
さらに、視界が良い森の中はカブトムシの成虫を餌とする鳥などにとっては都合がよく、簡単に補食されます。昔住んでいた場所では公園にある街頭にカブトムシが集まって来たのですが、夜明けちょっと前に鳥に食べられてしまいました。食べがいがないのか堅いからなのか頭部だけが残されて、その公園でのラジオ体操に行くと、もれなく蠢く断片がいくつも転がっていました。
飛ぶのが嫌な空間の方が安全なのではないでしょうか?

もっとも、人間の手が入った理想的な生物圏でも水田のように独特の生物圏も構成するので、それはそれで意義はあります。
水田は止水域を好むタガメのような水生昆虫にとっては天国でした。農薬の使用によって地獄になってしまいましたが。タガメゲンゴロウなどの水生昆虫、ドジョウなど蚊の幼虫を餌にする魚はまた、トキの餌にもなります。トキはやはり乱獲によって減少しましたが、かつては水田によって大量の個体数を維持していたと言えます。
一方、秋の収穫を終えた水田は水を抜かれ、非常に視界が良くなります。このような土地は落穂を狙う小動物にとっての餌場となると同時に、猛禽類の良い狩場にもなります。人間の活動が生物圏を作り出していた例でしょう。

しかし現在では、農業を経済として成立させるためには農薬の使用がほぼ不可欠になっているので水田もまたかつての理想的な里山の一部にはなりえません。
木炭利用が望めないのでクヌギやナラなどの照葉樹を育てても経営的に成立しません。もっとも杉など建材に使える木を植えても一本数千円程度なのでやはり採算は取れません。
タケノコが取れる竹林も経営的に難しいですが、竹林は照葉樹を駆逐して勢力を拡大する傾向があるのでそれも理想的な里山ではありません。竹害って言葉があるくらいです。
木炭を使った二酸化炭素埋蔵法があるので、そっちが実用化されれば樹木の利用もまた違った展開になるのでしょうけど。

DASH村では荒れた里山を整備して「ちょっと昔の里山の生物圏を回復・維持する」ことをひとつの目的としているので目的と行動が合致しています。しかしあの地域に住んでいる方々の年齢を思い出してもらえばわかるように、彼らの世代に今後も同様の維持活動を期待するのは困難でしょう。ただ、彼ら世代の知恵は絶対に残すべきです。

そもそも江戸以降、昭和期まで木炭が重要な価値を持っていた時代に里山が維持・管理されていた理由には「山間地では農業だけでは食べていけないので山を利用して副業を営んでいた」というものもあるので、いわば貧農が存在することが前提となるのです。
さらに歴史を遡れば江戸期には里山は松が優勢だったりまたは禿げ山が多かったりでひどい有様です。さらに戦国時代となれば木や竹は戦場で物見台や冊を作るための資源とされ、里山を維持管理している農民には勝手に切ることも許されず、しかし戦乱の度に命令されて乱伐が行われました。戦乱が起きれば乱伐されたため、日本の歴史上ほとんどの期間が乱伐期だったと言えます。
だからこそ、白神山地のブナの原生林が世界遺産として登録されるほど希少であり、他に日本の原生林は知床、神奈川、静岡、奈良、屋久島にある程度なのです。しかしこれらの森も人間が伐採を行わなかったわけではありません。白神山地でも屋久島でもかつて伐採が行われました。
伐採後植樹が行われ、さらに「人間の手などが一定期間以上加えられなかったので自然の状態で安定した植層=極相に至った」森林は日本ではそれほど少ないということです。
江戸期という安定期間には、戦場で利用するための乱伐がなくなったことと幕府の政策によって里山の植生は復活しましたが、明治になると幕府の保護政策から解き放たれてまた乱伐が始まりました。
つまり今盛んに言われる「照葉樹が茂り、下木うちが行われ、落ち葉も利用され、止水と流水がある」美しい里山の姿とは、せいぜい江戸後期〜明治初期と大正〜昭和の戦後しばらくという短い期間に存在しただけのものであり、生物圏としての歴史は非常に短いのです。

さらに、特に島嶼部で顕著ですが「と畜場法(1953交付)」による鹿・山羊・猪類の増加という問題があります。こちらはさらに短い期間の話となります。
沖縄では家々で飼っていた山羊を家で解体して食べる文化がありましたが、この法律が施行されてからはほぼ行われていません。山羊もまた農業サイクルの一環であり里山の生物圏の一部でしたが、それは失われてしまいました。
屋久島ではヤクシカが増えすぎて食害が問題になっていると今日のニュースでやっていましたが、これは保護の観点で狩猟対象から外したことが原因とされています。ヤクシカ屋久島では貴重なタンパク源でしたが、鳥獣保護法(旧狩猟法)・銃刀法と保護指定によって獲られなくなったのです。
これらに至っては50年以下のタイムスパンで進行したものです。

したがって日本にいる生物と里山との関係は限定的なものであり、その生態・生存環境にはそれほど影響を与えていません。DASH村で維持しようとしている生物圏もこの短い期間のものを目的としていのでしょう。
農薬をほとんど使わず、人の手によって作られた清浄な箱庭のような生物圏を作って維持するDASH村の存在は一つの実験として、またそれを見せる娯楽として、また自然と人間との関係を知らせる存在として見事に成立しています。しかし日本では同様な里山が持続的な生物圏として利用される可能性はいまのところ無いでしょう。

里山の幻想から早めに解き放たれるべきです。
過去の里山にとらわれず、現代の視点から人間が自然と関わることを前提とした生物圏の見直しとそのための保護・維持管理用の法律を作ることが必要なのです。
その意味でSATOYAMAイニシアティブが生まれたことは評価できるのですが、これにSATOYAMAと冠するのは日本国内ではメリットよりもデメリットが多いのではないでしょうか?
里山より、SATOYAMAイニシアティブのHPで紹介されていたオーストラリア・クイーンズランドの事例の方がはるかに名称を冠されるべきです。